フラワーフェスティバル



夏休み期間の学校は冬休みとは違って、入れ代わり立ち代り生徒が出入りするのでむしろ普段より賑やかだ。

一ヶ月半の休みをずっと親元で過ごす生徒の方が少ない。


高等部にもなると、大抵2〜3週間で学校に戻って来る。

何より勉強に不自由のない環境が、
僕たち生徒にとって一番の理由だった。


七月いっぱいを親元で過ごした達彦が、八月には早々と帰って来ていた。

僕も達彦も、大学入試に向けて最後の追い込みに入る。

お互い進む分野は違うけれど、未来
に掲げる目標に向かって歩く道は同じだ。



「守はまだ帰んねぇの?」

達彦が読みかけの本を閉じて聞いてきた。

「来週帰るよ。2〜3日母さんのところに泊まってから、父さんのところへ行くつもりなんだけど」

「カナダ?」

「カナダ、一週間ほど」

「いいよなぁ、もっと居ればいいのに。何もこんな暑い日本に居ることねぇじゃん。なぁ?山崎」

話を振られた山崎が、読んでいる本から顔も上げず面倒くさそうに達彦に答えた。

「だいたいこの時期にバカンスを楽しむ奴なんていないだろ。おれ達の学年で」

「そうだよ、達ちゃん。遊びに行くわけじゃないから」

僕までが一緒になって言ったことに達彦は少しむくれた様子で、

「へいへい、そうですか。ジャーナリストや外交官なんて、お偉い職を目指している人達は違いますねぇ。
あー、やっぱレストルームは退屈だ。そいじゃな、お二人さん」


ボスッと読んでいた本を僕のテーブルに放り投げて、そのまま出て行った。


「何?あいつ。達彦の工学の方がよっぽど超難関なのに」

山崎が今度は本から顔を上げて、苦笑いで僕の方を見た。

「達ちゃんは当たり前に出来るから、自覚がないんだよ」

「達彦らしいね」

そう言って、山崎はまた読みかけの本に目を落とした。



僕もそろそろ来週の準備をしなくてはいけない。

母の方はいいとして、父には連絡を取って日
程の打ち合わせや飛行機のチケット・・・。

そして先生にも・・・。


「山崎はまだ居るの?僕は部屋に帰るけど」

レストルームを出る間際、ふっと目に止まった天上に吊るされたハンギングバスケット。

山崎の真上の、黄色い花びらのオンシジュームが・・・。





―違う!!クラスと名前!!―


『 ほら、黄色いドレスを着た女の子が踊っているようだろう 』


そう言った先生が、黄色いドレスを着た女の子たちが踊るその下で差し棒を振り上げる。


―それも違う!―


パシ―ン!!


ひときわ高く強い音がした。





「もう少し居るよ。・・・白瀬、いつか日本じゃないところで出会えたらいいな」

組んだ腕をテーブルに付いて顔を上げる。

フッと口の端を軽く上げた山崎からは、一時期の神
経質そうな表情はもう全くなかった。



レストルームを出て、とりあえず部屋に帰る。午後2時。ぽっかりと空いた中途半端な時間。

机に片肘をついて、しばしぼんやりと考える。

思い浮かぶのは和花さんのこと。

だけど今は、あの焦がれるような思いはなくなった。悲しかっ
たわけでもなく、苦しかったわけでもない。

むしろ和花さんに会ったことで、ひとつの思いが泡の
ようにすぅっと心に溶けていった。


―お姉さんたちに会いたければ駅前のギャラリー 樹(いつき)≠ノいるから。いつでもいらっしゃい―





七月はじめの日曜日、返しそびれたハンカチと前日に摘んだ野ばらの花束を持って、連絡もせず和花さんを訪ねた。

花占いの花びらを一枚一枚ちぎっていくように、いる、いない、いる・・・
そんな事を思いながら。

ギャラリー 樹≠ヘ絵画の展示と販売をしており、コーナーにはカウンターのみの喫茶も設けていた。

カランとドアを開けると、テーブルに座って書き物をしている女性がいた。

久美さん・・・?

「いらっしゃい・・・、あらっ?」

少し驚いた様子の、でも来店を喜んでくれているような久美さんの笑顔だった。

「来たわね、少年。和花でしょう?和花ぁ、お客様よ。交代しましょうか」

あまりにもストレートな言い方に、照れることも忘れてしまう。

和花さんは喫茶コーナーの方に
居るようだった。

「何してたの今まで・・・頑張らないと、分が悪いわよ」

久美さんは半分冗談半分本気のようにそっと僕に耳打ちして、横の喫茶コーナーへ行った。

勧められたソファに腰掛けながら、展示してある絵の方を見ていた。

視野の隅で肩にかかる髪
がフワッと揺れた。はっとして顔を向けると、

「こんにちは、白瀬君。ほんとうに来てくれたのね」

微笑む和花さんが目の前にいた。


「今ごろで申しわけないです。花粉はきれいに落ちていますから」

名前を覚えていてくれたのは嬉しかった。ハンカチと野バラの花束を差し出した。

「みずみずしくて・・・柔らかな黄色。ハンカチ一枚で何だかとても得した気分だわ。ありがとう。
花瓶に活けてくるから、どうぞ絵をご覧になってて」

絵はさまざまな号数で描かれたものが、きれいな羅列で掛けられていた。

一枚一枚見事な色合いで描かれた絵を見ているうちに、ふと准の絵を思い出した。





雨粒に濡れる薄い緑と薄い黄色の紫陽花が、見事に融合した色合いで描かれた准の絵。

細かでしっかりしたデッサンに塗られた不思議な色合い。

物の色が少しみんなと違って見える。

今なら准は個性的でしょと、クールに笑って言うだろう。

もそれまでは、そのことが彼の意地と自尊心に大きな影を落としていた。

しかし先生の一打が、それを打ち砕いた。


先生の一打は准の意地も自尊心も許さなかった。


―これが君の答えだ。そうだろう、准!―


パシーン!パシーン!

パシーン!パシーン!


緩まない先生の手が、強く准のお尻を叩く。


パシーン!パシーン!

パシーン!パシーン!





「どう?白瀬君。私のお気に入りの花瓶なの」

和花さんが、ガラスの花瓶に活けた野バラをテーブルの真ん中に置いた。

デュラックスのガラス製品が好きなのと言った和花さんお気に入りの花瓶は、透明のカット細工がパステルカラーの黄色と調和してとても涼しげだった。

他の花を混ぜなかったのも良か
ったのかも知れない。

「絵の方はどうかしら、みんなどれも良い絵ばかりでしょう。
うちのギャラリーはね、画家の卵さ
んやアマチュアの方たちばかりなの」

和花さんと一緒に横に並んで絵を見る。

どの絵も生き生きとしていて、けして商業的ではない、
絵を描く純粋さを感じた。


そんな絵の中にあった一枚。思わず目をみはってしまった。


「・・・素敵でしょう。それは非売品なの。こちらに来て下さった時に、ご自身も絵を描かれるとおしゃって。
それなら是非にと所望したのよ」


ウフフッと和花さんは少し悪戯っぽく笑った。

キャンバスいっぱいに描かれた向日葵(ひまわり)の群生がギラつく太陽の陽射しの下、ものともせず雄々しく八月の空に向かって咲いていた。

余分な線も色もない。見たままの情景がそのまま伝わる、そんな絵だった。


―八月 向日葵― 本条 志信(ほんじょう しのぶ)


視線は絵から外せなかった。和花さんの顔を見たくなかった。

僕は何を勘違いしていたのだろう。

まるで先生のことは何でも知っているかのように・・・。

僕の
知らない先生がそこにいた。


「絵の価値は見る人によって決まるものと、私は思っているの。
名画のひまわりより、私にはこち
らの向日葵のほうがはるかに価値があるの」

そう言って絵を見つめていた和花さんの横顔が今も忘れられない。尊敬と愛しさと。

そんなふうに人を愛する気持ちに触れて、溶かされていく僕の焦がれる思い、嫉妬、落胆。

しく心に溶け込んで、いつか僕の糧となるだろうか。

いつか僕もそんなふうに人を愛せるだろうか。





先生の携帯は連絡は来るけれど、返信が返って来たことはない。

こちらから連絡メールを送信
しても無しのつぶてなので、結局探しに行かなければならない。

先生には言っておきたかった。進路や、これからのこと・・・もうあまり先生のところへ行く時間が取れなくなることなど。

とりあえず花屋の奥の部屋に行ってみようと、部屋を出た。


廊下のところで、すれ違った人物にあっ!と声を上げてしまった。

向こうは僕に気づいていたようだ
ったけど・・・。


「関谷・・・?」

「・・・おぅ。」

少し照れた様子で関谷が振り返った。

「髪切ったんだね。一瞬わからなかったよ。・・・その方がずっといいよ」





凌霄花(のうぜんかずら)の枝垂れ咲く花の下、スゥーッと流れるような風が吹き抜けて寝ている関谷の髪がパラパラと乱れた。


―関谷、髪切れよ―


つい関谷の頭に手がいってしまった。


―よくできました、ゆきおちゃん―

おかぁちゃまが頭を撫でてくれるの。





「うわっ!やめろ、触んなっ!」

真っ赤な顔で関谷が僕の手を振り払った。

「あはは、ごめん、ごめん、つい・・・。関谷は帰らないの」

「何がつい、だ!まったく・・・俺は帰らねぇよ。この間に遅れたぶん取り戻さなきゃな」

「そう・・・関谷はやっぱり親父さんの後継ぐの?」

「・・・まぁな。そんときゃ、お前の家くらい俺が建ててやるよ」

関谷は父親の後を継いで、建築家を目指す。

相変わらず粗野なところは変わらないけれど、何
かが吹っ切れたような関谷の眼はとても穏やかだった。





寮を出て、通用門へ向かう。

冷暖房設備の整った館内ではつい忘れてしまいそうになる季節感も、一歩外に出ると照りつける太陽とセミの鳴き声。

ふと目をやると小さな花壇の、ここにも向日葵が。




「ほら、ちゃんと謝れ」


「健ちゃんもだろ」


健ちゃん・・・聞こえて来たのは池田の声だった。

思わず立ち止まった


大きな木の木陰の方から聞こえて来る。

見ると二組の兄弟がいた。



「池田。・・・北沢君?」


「あっ、先輩!」


―北沢 直紀(きたざわ なおき)―


僕を先輩と呼んだ彼の名前。


池田と弟の健太。そして北沢と・・・

今年の四月に、弟が入学して来ると言っていたけど。


「北沢君の弟?今年の新入生なら健太君と同じだね」

北沢は人懐こい笑顔で頷いた。


「白瀬、もうこの二人、けんかばかりなんだ」

池田がちょっと困った顔をして僕に言った。

「そのくせ、いつも一緒にいるから仲いいのか悪いのか・・」

北沢も同じように愚痴を零した。


「仲いいことないよ!こんなやつ!」

北沢の弟もやんちゃそうな顔をしている。

「僕だってそうだもん!!」

売り言葉に買い言葉で、健太がまた反応する。


「こらっ!」

バシッ!

北沢が弟のお尻を叩いた。

「いたっ・・兄ちゃん!痛いぃ」

北沢の弟がとたんに涙目になった。


「ばーか」

「健ちゃん!」

池田の強い口調に健太も涙目で甘えた。

「お兄ちゃん・・・だって」





―お兄ちゃん、優しさを取り違えるな―


―自分のしたことが悪いことだって、わからないんだろ。だから健ちゃんがどれだけ悪い子か
お兄ちゃんが教えてあげる―


揺れるカーネーション。母を知らない健太の心を、母を知る池田の心が支える。

池田のお尻を叩くその手が、健太の心の闇を引き剥がす。





「だってじゃない、健ちゃんお尻!」

健太も池田からお尻を叩かれて、仲直りより先に大泣きの二人だった。


「お兄ちゃんは大変だね、北沢君」


大変ではあるけれど、とてもほほえましい光景に見えた。自分と同じ血を分かつ者の存在。

少し羨ましくもあった。それだけに失った時の心の均衡はどう保てばいいのか。



『 ワタシヲワスレナイデ・・・

忘れないでね、大好きなお兄ちゃん 』


―直、四月には弟が中等部に入学して来るんだろう。兄さんの君がそんなでどうするの―


うな垂れる直紀に先生は弟もいるのだと、それでいいのかと兄としての自覚を促す。

促すと同時に先生の平手が血溜りを作りながら再開された。


バチィ―――ンッッ!!バチィ―――ンッッ!!


「あっっ―!!ひぃ・・たぁ―いっっ!!せっ・・先生!痛てぇ―!!」


今までの直紀の思いの全てが、吹っ飛ぶほどの悲鳴が上がった。


水色の小花・・・勿忘草(わすれなぐさ)は、小さな妹の面影と共にきっと枯れることなく直紀の心に咲きつづけているだろう。





通用門の出入り口のところで、下級生の一団が輪になって騒いでいた。中等部のようだ。

普段
ならすぐ注意されるようなことも、夏休みは迷惑にさえならなければ、案外先生も大目に見ているようだった。


「すぐ帰って来るからね」

「僕も、二週間したら帰って来るよ」

「いいよぉ、帰ってこなくても。おれたちいっぱい遊びの計画立ててんだから!」

家に帰る友達を見送っているのだろう、周りの友達からギャハハと笑い声が上がる。


「なぁ、優!」


優?聞き覚えのある名前・・・


細い身体、フワフワの茶色い髪、大きな黒い瞳の幼い容姿の男の子。


―篠原 優(しのはら ゆう)―


その一団に優を探した。





極大輪の椿の垣根の中に身を隠していた優。

先生は両手で椿の垣根を引き裂くように左右にかき分けた。



愛に迷った妖精の
心はいったいどこにあるの
悪戯ばかり繰り返す
覚めた振りをしても
甘えた振りをしても
寂しさは癒えないでしょう



―先生・・・僕には一番に思ってくれる人がいない・・。夏休みも冬休みも帰るところがない―


―優、帰るところはなくても居るところはあるだろう。学校にいればいいじゃないか。
そしてたくさ
ん友達を作ってごらん。一番なんて言っていられなくなるくらいに―





あれから半年以上経っている。

しっかり自分の現実と向き合って、背も伸び声変わりもして・・・妖
精は少年になったのだろうか。

楽しく騒ぐ下級生の輪の中に、優を見つけることは出来なかった。





通用門を出て店の方から入る。

狭い間口に置かれた花を見てまだバケツの氷が溶け切って
いないことに、つい今しがたまで先生がいたことが窺がえた。

奥の部屋を抜けて裏側から、宿舎に通じる道を行く。

宿舎に入ってすぐ食堂に行く。先生はいなかった。

レストルームからスタディルームへ行った。

部屋はクーラーが効いていて、ずっと歩いて来て汗
ばんだ体にとても気持ちが良かった。

少し涼んでいこうと何気なくテーブルの椅子に腰掛けた。

テーブルの上に一通のハガキ。

差出人を見なくても、誰からかわかる。


僕のところにも来た聡からの暑中見舞いのハガキ。同じものが先生にも来ていた。

もうハガキまで書けるようになって、もしかすると来年には復学出来るかも知れませんと添え書きがされていた。





―村上 聡(むらかみ さとし)―


適合者の確率、何万人分の1の確率。聡はその確率を引き当てた。


もう・・いいんです。先生、僕が勉強する意味は?何も出来ないのに、壊れたコップも片付けられない・・・。
花さえも触れなくて、僕が生きている意味は?先生、ならせめて確かめさせてよ。
僕の指先から赤い血が止まることなく流れて、そうしたら僕は生きていることを実感出来るかも知れ
ないでしょう―


聡の涙は途切れることはなかった。


聡が受け止めるには、あまりにも重過ぎる現実がそこにはあった。


―やぁああ〜んっ!うっ・・ひっく・・けど、わかってるけど、どうして僕ばっかりぃ!―


おとなしくて明るくて素直な聡に抑えられていたもうひとつの心が、先生の手で救い上げられる。


―君の人生だからだよ。君だけの試練だ。
誰も代わってあげることは出来ないから、君が頑張
らなくちゃいけないんだよ―



桜舞い散るその中で、聡を見送る本条先生がいた。

両親が迎えに来た車に乗る間際、聡が振り返って先生に言った。


―先生、僕は帰って来れる?―


―その答えは君自身が一番良く知っているだろう―


先生の自信に満ちたその笑顔に、聡もつられて笑顔を返した。


―白瀬さん!僕が帰って来た時には白瀬さんはもう卒業しているかもしれない。
その時は僕が
先生の面倒を見ますから―





そうだ、聡がいたんだ。僕が卒業しても聡がいる。

立ち上がってつけっ放しのクーラーを切った。

ちゃんと誰かが面倒を見てくれる。

こんなふうに・・・。


先生の二階の自室は、階段のところのドアが閉まっているので不在がわかる。


宿舎にもいない。

後、捜すのは温室だけだ。

宿舎を出て各温室をまわる。点在しているのでけっこう時間が掛かった。夕暮れが迫る。

最後のバラ園でも、先生はいなかった。


夕暮れのバラ園。むせ返るような甘い芳香。

引き寄せられるようにブルボンローズの前に立っ
た。





仲村さんが切り落とした花。

先生がそれで作ったベールとコサージュ。



仲村さんがズボンと下着を下ろして、地面に両手と両ひざをつけた。

夕暮れ前の傾きかけた陽の光がその姿を照らした。


―・・・・・・・だって、どうしようもないじゃないか!おれはまだ学生なんだよ!!―


手をついた地面に爪を立てながら叫んだ。


―違うだろう、仲村。学生でも責任をとる方法はあるだろう。歳はいくつだ、甘えるな!―


先生の痛烈な一打が打ち下ろされる。


ビシ――ッ!!



―ばかね・・・―


彼女がバケツとタオルを借りてきて、仲村さんのお尻を冷やした。

温室の柔らかな土の上に寝そべる仲村さんと、その側に座る彼女。

仲村さんが彼女と共有した時間。それもまた愛の形だ。





仲村さんは愛を、僕は希望をバラ園で取り戻した。

僕を変えた先生の一打。


まさか・・・僕は後ずさりをするのだけど、バラの中からは抜け出せない。


―先生・・・いやだ・・・―


精一杯の僕の反発も恐れも、先生はそ知らぬ顔でやり過ごす。


ビシーッ!!


花びらが目の前に舞い落ちる。


打たれる痛みの前では隠せなかった自分の心の奥底の真実。


―・・・逃げないで自分の気持ちを素直に・・・達彦とは友達でいたいから―


―まずそこからだね。規則と勉強ばかりが、学校生活でもないよ―


足元の花びらを拾らいながら、先生は僕の前に来て言った。





どこにいるのだろう、結局先生に会えなかった。

今まではほとんど呼び出しばかりで、自分から
会いに行くことはなかった。やはり連絡を待とうか。

どうせ忙しいと言ったところで、あまり聞いてもらえそうにもない。

温室の鍵を閉める。

バラの花びらが数枚戸口に落ちていた。拾って見るとまだ新しい。先生の体についたのが落ちたのだろうか。

先生も来ていたのかもしれない。


行く先々に先生の気配は感じるのだけれど。


陽が落ちる。

花に囲まれた静かな世界。

しかしけして穏やかな時ばかりではなく、時に激しく時に辛く。

人生の縮図がそこにある。

でもここに来た生徒はみんな立ち直って学校へ戻って行くと、先生は言う。

少年のような笑顔で。


―フフフ・・・花の魔力かな―


戸口で拾ったバラの花びらを。手の平にのせた。

その手を頭上にかざす。

花びらが風に吹かれて散った・・・あの時のように。







第二部 村上 聡 (扉絵/コロン様:画)